(第1話)スウェーデンの少年 J.リンドストロム


ヨルゲン・リンドストロムについて取り上げる。1951年スウェーデン、ナッカ生まれ。
小さい頃からテレビに出演したが、映画は3本のみで、わずかな本数とはいえ、少年の輝きを見せてくれた。

沈黙

1963年、イングマル・ベルイマン監督。ベルイマンの「神の沈黙」三部作の最後の作品。密室劇のような感じで、列車内のけだるい雰囲気から、途中下車した言葉の通じない外国のある町のホテル内での場面が多い。

翻訳家で独身の姉(イングリッド・チューリン)と妹(グンネル・リンドブロム)との葛藤が描かれている。妹の息子ヨハンをヨルゲン・リンドストロムが演じている。当時12歳くらい。ヨハンはホテルで退屈な時間を過ごしている。

ホテルに飾ってあるあやしげな絵とか、いろんなものをきれいな瞳で見るが、それがどういう意味なのかも理解できず、また表現もできない。退屈しのぎにおもちゃのピストルを持ってホテルの廊下を歩き回るが、従業員の老人とか、小人の旅芸人と言葉を介しないで少し交流する程度である。姉妹の葛藤という精神的にふさぎこまれたくなる中で、彼の存在はかわいらしさがほとばしる感じであった。

夜のたわむれ

1966年、マイ・ゼッタリング監督。これについては、すでに述べてあるので、そちらを参照してほしい。

「沈黙」で叔母役だったイングリッド・チューリンがこの作品では母親役。その母とのかかわりが大人になった今もフィアンセとうまくいかない要因になっているということで少年時代の回想シーンで、登場する。きわどい性描写などでいろいろと話題になった作品である。


ヨルゲン・リンドストロムが53歳の時に、インタビューに答えている。「当時新聞等で話題になったことは覚えている。でもまだ子供だったし無垢であったが、人生の真実についてちょっと知ったという感じである。

今どう思っているかという質問には、「ま、こっけいだったかな。たいしたことではなかった。この映画を見てない友人に、これを見ればオレのヌードが見られるぜ、とちょっと楽しんでしゃべるのさ。

仮面 ペルソナ

1966年、イングマル・ベルイマン監督。
冒頭のイメージシーンにのみ登場する。

上半身裸で寝ているところを起き上がり、壁に向かって女性の顔の幻影を手で追う。失語症にかかった舞台女優(リブ・ウルマン)の物語であるが、彼女の息子役なのか、そして彼の行為は母への思慕を表現しているのか。出演者のクレジットにも彼の名は出ていなかった。

これら3本で映画出演は終わったが、少年としての美しさを保ったままである。彼は「子役でやっている間は楽しかったが、俳優になる気はなかった」と述べている。学校卒業後映画産業で24年間仕事をしたそうである。

彼が映画で演じていることに気づく人はいるだろうか?という質問には、「ほとんどいないだろう。『沈黙』をたまたま見た人も、僕がそこに映っているとは知らずにいるだろう。」と答えている。強く印象に残る少年俳優だ。(インタビューはインターネットから。筆者訳)



 

(第2話)ソ連映画の少年


ソ連映画の中で、主人公の子供時代のエピソードで登場したり、家族の一員として出てきたりする少年を紹介する。
たいていは演じている少年の名前もわからないが、時に強く印象に残るものだ。

火の馬

1964年、セルゲイ・パラジャノフ監督。

カルパチア山地の少数民族の物語で、ミハイル・コチュビンスキーの原作。原題は「忘れられた祖先の影」。独自の風俗習慣をもつ種族の前近代的な生活を美しい色彩で描いている。

敵同士の家のイワンコとマリチカの恋は、いわば村のロミオとジュリエットである。イワンコはマリチカと結婚するための資金を得るために出稼ぎに行くが、マリチカははぐれた子羊を追って、谷に落ちて死ぬ。悲劇は早く訪れ、イワンコは悲しみのあまり、放浪の旅に出る…。

二人の子供時代、仲良く遊ぶ姿が描かれるシーンはほのぼのとしている。谷の林の間を駈け下り、谷川のせせらぎで裸になって水遊びをする。カメラは躍動的な二人をしっかりととらえている。

子供時代の二人を誰が演じていたかはアートシアターのパンフレットにも記載はない。

1975年、アンドレイ・タルコフスキー監督。

タルコフスキーの長編第4作であり、自伝的要素も加わり、主観的な世界に満たされている。母への思い、別れた妻と息子との関係を描いているが、回想で出てくる母と妻の二役をマルガリータ・テレホワが演じ、また自分の少年時代と息子のイグナートの二役をイグナート・ダニルツェフが演じているので混乱させられる。

意識下の過去と現在を交錯させながら深層心理を描き、さらにニューズフィルムで歴史的な事実を示している。水と火のイメージもあり、この「鏡」からタルコフスキー作品は迷宮に入ったような感じとなった。


機械じかけのピアノのための未完成の戯曲

1977年、ニキータ・ミハルコフ監督。

チェーホフの「プラトーノフ」に短編のモチーフを加えて映像化したもの。

19世紀末、田園の中の将軍未亡人の屋敷に夏の休暇を楽しもうとさまざまなインテリの人々が集う。そこで見える人間模様から、貴族階級の人たちも一皮むけば、あわれで愚かな人間ばかり。

機械じかけのピアノとは自動ピアノのこと。ロールに記録された穴に従って音楽を奏でるが、状況に応じた対応ができず、文字どおり機械的に音楽を流すだけ。集う人たちの空虚なカラ元気を皮肉っているのか。人々の中に、息子を連れてきた人がおり、その少年は大人たちの喧騒の中で、特に役として何もない。

ラストはバカ騒ぎをして夜を明かし、ドニゼッティの「愛の妙薬」から“人知れぬ涙”のアリアが切々と流れ、後奏のところでベッドで幸せそうに眠る少年が映る。朝日が射し込み、まぶしさから寝返りをうつところで終わる。印象的な終わり方であった。

人間の運命

1959年、セルゲイ・ボンダルチュク監督。

アンドレイ(セルゲイ・ボンダルチュク)は若いとき革命に加わり、家族を飢饉で失う。大工をしながらイリーナと結婚し、三人の子供をもうける。第二次大戦で出征し、独軍の捕虜になり、辛い生活を生き抜くのも家族を思ってのことだった。途中で逃走し、味方のところにたどり着く。休暇で帰郷すると家も家族もなく、戦後長男も戦死した知らせを受ける。

再び孤独になり、絶望しそうな時に、孤児のワーニャ(パーヴェル・ボリスキン)に出会い、二人は新しい生活を始めるというもの。アンドレイが「パパだよ」と言うと、ワーニャが抱きつくシーンは感動的だ。モスクワ映画祭グランプリ受賞作。


石の花

1946年、アレクサンドル・プトゥシコ監督。

ウラルの民俗物語を基にしたP・パジョフの原作の映画化。

孔雀石の細工をしているプロコーピッチはもう年で、死ぬ前に技術の伝授をしようとする。森の中で角笛を吹く牧童の少年ダニーラ(V・クラフチェンコ)は繊細な感覚の持ち主であった。貴族から依頼があった小箱をプロコーピッチが完成できず、それをダニーラが仕上げる。

青年になったダニーラ(ウラジミール・ドルジーニフ)はカーチャと恋をするが、銅山の女王の石の花の話に興味をもち山へ行き、女王に誘惑される。巨大な石の花を完成し、ラストはカーチャと再会できる。

四季の変化や小動物の描写、幻想的なシーンもあり、ミュージカルタッチもある。ソ連初のカラー映画で、くすんだ中間色が美しいアグファカラー。カンヌ映画祭で色彩映画賞を受賞した。

少年ダニーラを演じたV・クラフチェンコは、14歳くらいであろうか。まだ声変わりはしていなかった。



 

(第3話)音楽家の伝記映画


音楽家の伝記映画、成功物語の映画は多く作られたが、子供の時からその才能を発揮していたと少年時代を描いたものを取り上げる。もっとも出番はわずかであるが。

アメリカ交響楽

1945年、米映画。アーヴィング・ラバー監督。
ジョージ・ガーシュウィン(1898‐1937)の伝記映画で、原題である「ラプソディー・イン・ブルー」をはじめ彼の作曲した多くの曲を楽しめる。特にアル・ジョルスン本人が出演し、彼の歌う「スワニー」は見もの、聴きものである。
(ちなみに彼を題材にした「ジョルスン物語」という映画もある。1947年、アルフレッド・E・グリーン監督)

冒頭で、店に置いてある自動ピアノに合わせて演奏を楽しむジョージ少年(ミッキー・ロス)の姿が映し出される。家でピアノを購入し、親は兄のアイラ(ダリル・ヒックマン、右写真)に習わそうとするが、彼は気が進まない。ジョージが腕前を披露し、母親は驚く。わずかの登場であるが、少年の時から才能があったことが良く伝わる。

歌劇王カルーソ

1951年、米映画。リチャード・ソープ監督。
不世出のテナー歌手エンリコ・カルーソ(1873‐1921)の生涯を描いたもの。

音楽的に恵まれた家庭環境ではなかったが、子供の頃から聖歌隊で歌っていた。この少年時代をピーター・エドワード・プライスが演じている。青年時代以降のカルーソを、テナー歌手のマリオ・ランツァが演じ、沢山の歌を聴かせてくれる。アカデミー賞録音賞受賞作。

ヤングカルソ

1951年、伊映画。
ジャコモ・ゲンティロモ監督。
「歌劇王カルーソ」と同じ年に(没後30年ということか)、イタリアで作られた作品。日本未公開で、何と百円ショップのダイソーが販売したもの(DVDは台湾製)で、これは掘り出し物と言って良いだろう。英語吹替版で、77分、オリジナルのイタリア語版は81分と聞く。

少年時代のカルーソ役はマウリツィオ・ディ・ナルド(1938年生まれ)が演じ、歌唱は吹き替えであろうが、可愛らしさを発揮していた。青年時代以降は、エルマノ・ランディが演じており、歌唱は当時活躍していたマリオ・デル・モナコが歌っていた。ジナ・ロロブリジーダとか名優が出演しているが、作品の出来は今ひとつであるのが惜しまれる。



 

(第4話)ドイツ、オーストリアの音楽映画

未完成交響楽

1933年、ウィリ・フォルスト監督。

シューベルトの物語であるが伝記映画ではなく、創作である。

未完成交響曲が2楽章で終わり、3楽章はスケッチしか残されていないのはなぜなのか、あれこれ憶測するしかないが、この作品ではある女性とかかわらせている。

シューベルト(ハンス・ヤーライ)は貧しく、質屋通いをしているが、そこの娘エミー(ルイーゼ・ウルリッヒ)が何かと彼に気を遣う。彼は助教師をしており、算数を教えながら、わいてきた楽想を黒板に書く。ゲーテの「野ばら」を子供たちに歌わせる。

貴族の館に招かれ、新作の交響曲をピアノ演奏するが、3楽章が始まり、やがてある女性の笑い声で演奏を止める。

エステルハージ家の令嬢に音楽を教えることで呼ばれ、そのカロリーネ(マルタ・エゲルト)こそ笑った女性であった。彼女が歌うセレナード“Leise Flehen Meine Lieder”(この映画の題である)の歌声は美しい。

シューベルトは恋に落ちるが、彼女には決まった人がいた。祝宴に彼が呼ばれ、曲が完成したので演奏するがまたしても、3楽章が始まって、彼女は悲嘆の声をあげる。

シューベルトは3楽章以降の楽譜を破り、「わが恋の終わらざるごとく、この曲も終わらざるべし」と書く。映画の題材としては面白いが、大衆受けを狙った展開だ。シューベルトが教える生徒をウィーン少年合唱団員が演じていた。

なお、右はマルタ・エゲルト歌唱によるこの映画の主題歌セレナードのSP盤(日本コロムビアJ2040)の歌詞カードである。

菩提樹

1956年、ヴォルフガング・リーベンアイナー監督。

「トラップ・ファミリー」の題で、主人公のマリアの回想録をもとに映画化したもので、「サウンド・オブ・ミュージック」の原点ともいうべき作品。

退役したトラップ大佐(ハンス・ホルト)の屋敷に修道院からマリア(ルート・ロイヴェリック)が家庭教師としてやって来る。7人の子供たちは彼女と一緒に歌い、遊ぶなかでマリアになつき、大佐も彼女に好意を寄せ、結婚する。

しかし経済危機による破産でホテルを経営することに。合唱祭でマリアと子供たちが歌い優勝する。そして1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合する。合唱祭で声をかけてくれたアメリカの興行主を頼ってアメリカに渡る。

この作品でもオーストリア民謡をはじめ多くの名曲をすばらしい歌声で楽しむことができる。邦題の「菩提樹」は、エリス島の移民局の施設に収容されているところに、断りにきた興行主や人々の前で歌った曲である。彼らはこの歌声で、興行主が保証人となり、無事アメリカ入国を許可される。

子供たちは、長男ルーペルトにクヌト・マールケ、次男ヴェルナーにミヒャエル・アンデ。あと5人の女の子たちは、ウルスラ・ヴォルフ、アンジェリカ・ヴェルト、モニカ・ヴォルフ、ウルスラ・エットリヒ、モニカ・エットリヒである。

ラストはアメリカでのステージ、アンコールの最後にブラームスの「子守歌」を歌い、マリアのおやすみの一言で終わる。(左はヴェルナーとルーペルト。右はザルザッハ河畔を歩く兄弟)

続・菩提樹

1958年、ヴォルフガング・リーベンアイナー監督。

トラップ一家がアメリカに渡ってからの後日談を描いたもの。同じキャストで、子供たちの成長した姿が見られる。

アメリカで演奏活動を続けるが、聖歌とかミサ曲といった正当派の曲ではアメリカでは通用せず、客足も落ち、契約も解除される。

ブルックリンのアパートで清貧の生活を送る中で、ヴェルナーとルーペルトはスロットマシーンでお金をすってしまうが、アパート近くで「オールド・ブラック・ジョー」を歌い、酔った男からお金をもらう。女の子たちも加わり、歌声を聞いたアパートの人たちも集まる。

マリアはセックスアピールが足りないという意味がわからず困惑したりするが、ハリスというエージェントの契約にこぎつけ、ハマーフィールド夫妻の支援もあり、再びコンサート活動をする。

ヴァーモント州の村で故郷を思い出し、空き家になっている家を買い、新たな希望にあふれるが、彼らのビザが切れていることが発覚する…。

アメリカでの浮き沈みのエピソードを交えたサクセスストーリーのファミリー映画であるが、この作品でも名曲を味わえる。ドイツ、オーストリア民謡に加え、フォスターの曲など多彩であるし、家の修繕をする時に歌う曲はオリジナルで、まさにミュージカルの手法で描かれる。

タイトルには、レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊の少年たちの歌唱であると書かれている。
ラスト、移民局で滞在許可が出た後で、一家はハマーフィールド夫妻の前でお礼の意味も込めて「美わしの国」を歌う。最後はマリアが「さよなら」を言って終わる。

1958年公開時の
パンフレット

野ばら

1957年、マックス・ノイフェルト監督。

ウィーン少年合唱団の歌声を楽しめるとともに、彼らのアウガルテン宮殿での生活の様子や、山のロッジでの合宿などがわかる作品となっている。

ハンガリー動乱で孤児になったトーニ(ミヒャエル・アンデ)はオーストリアに難民としてやってきて、元船長のブリュメル(ヨゼフ・エッガー)に引き取られる。トーニの口ずさむ歌声に才能を見ぬいたブリュメル、二人で歌う「陽の輝く日」はこの映画のための書き下ろしだという。

教会で歌う合唱団の歌声に魅せられたトーニは、オーディションを受けて入団する。寮母のマリア(エリノア・イェンセン)にはトーニは母のように慕う。

合宿の時に、オーストリア・アルプスの美しい景色には目を見張らされ、その牧歌的雰囲気の中で、マリアとシュミットの恋愛なども加えられている。また、少年同士の仲違いや嫉妬も描かれているが、後半は劇的に展開する。


サントラSP盤レーベル
(キングCL-248)

登山に行けないマリアのためにエーデルワイスを摘んできたトーニは、夜こっそりとマリアの部屋に届けるが、その様子を他の団員が見ていた。戻ったトーニはロッカーに何かを隠す。マリアの机に置いていたお金から千シリング札一枚がなくなっていたのだ…。

原題は「生涯で最も素晴らしい日」であるが、これはトーニが初めてオペレッタの主人公の扮装をしたときに語ったセリフにある。そのオペレッタで歌われたのがドレクスラーの「すてきなお兄さん」である。

ウィーン少年合唱団が歌う歌はどれも素晴らしいが、随所で歌われた「歌声ひびけば」もノイブラントがこの映画のために作ったものである。また、モーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」をふざけて現代風のリズムで歌うシーンもあった。

ほがらかに鐘は鳴る

1959年澳,西独映画。エドゥアルト・フォン・ボルゾディ監督。

主人公の少年ミヒャエル・アンデは、「わが青春のマリアンヌ」(1955、番外編62)以来、毎年音楽映画に出演し、「野ばら」に続いてウィーン少年合唱団と共演したこの作品は、彼の少年期の最後の一本であろう。

背もずいぶん伸びているし、変声しているが、歌うシーンでは吹き替えでボーイソプラノである。

合宿で山荘にやって来たウィーン少年合唱団、マリオ先生(テディ・レーノ)はそこの大地主の娘ハンナ(ロニー・フリードル)に恋をしている。ハンナの姉は父と確執があり、勘当された状態であるが、ふとしたことから合唱団員のミヒャエル(ミヒャエル・アンデ)が姉の息子だとわかる。

しかしそのことを父(ビリ・ビルグル)にも言えず、女中と秘密にしていた。その大地主とミヒャエルはふとしたきっかけで知り合い、親しくなり乗馬をしたり釣りをしたりするが、互いに関係は知らない。

ミヒャエルは落馬をし、脱いだズボンのポケットの中に、屋敷の紋章のついたロケット(母からもらったもの)が入っていたことから、地主の婚約者にミヒャエルが盗んだと疑われる…。ラストは誤解が解け、ミヒャエルの母も帰ってきてめでたしめでたし。

「野ばら」の二番煎じみたいなもので、作品的価値はともかく、物語展開は工夫がある。やはりウィーン少年合唱団による「歌えば楽し」「天使の糧」「南国のバラ」などの歌声の楽しめるファミリードラマである。連続しての音楽映画でミヒャエル・アンデの活躍を見られたのは良かった。

ウィーンの孤児

1936年、オーストリア,オランダ映画。マックス・ノイフェルト監督。

監督は『野ばら』のマックス・ノイフェルト。『ウィーンの孤児』は『野ばら』の原型である。

この作品が作られた頃は激動の時期で、1938年にはナチスドイツがオーストリアを併合している。この作品はヨーロッパ4か国とアメリカだけ公開され、西ドイツでは戦後の1950年に公開された。

監督はこの作品に思い入れがあるとみえて、ともすると埋もれて忘れ去られそうなので、基本的なプロットも人物も変えずにカラーで『野ばら』を作ったのだと思われる。

孤児のトーニは靴職人の見習いをしているが、ストリートミュジシャンのブリュメル(ハンス・ブルデン)と出会い、トーニがすばらしい歌声の持ち主なので、ウィーン少年合唱団に入団させる。

あとは、シスター・マリア(ユリア・ヤンセン)とのかかわりや、物語の展開を『野ばら』に継承している。チロルロケがすばらしい、白黒であっても絵になっている。そしてチロルのお祭りの風物も描かれている。

主人公のトーニをはじめハンジなど、演じている少年の氏名は伏せられてウィーン少年合唱団員となっている。グルーバーの「歌えば楽し」がオープニングから何度か用いられており、モーツァルトの「戴冠ミサ」からキリエ、「バスティアンとバスティエンヌ」のデュエットなどウィーン少年合唱団の歌声を楽しめる。

トーニとブリュメル                                 ハンジ    

マリア先生と                                       



 

(第5話)日本の音楽映画の少年


ヴァイオリンを弾く少年の出演した2作品を取り上げる。

異国の丘

1949年、新東宝映画。渡邊邦男監督。

新東宝の歌謡映画の一つ。夫(上原謙)が出征し、久米子(花井蘭子)には二人の子供がいる。夫は音楽家になる夢を果たせず、子供たちに音楽を習わせたいという願いを久米子はしっかり守っていた。戦後3年経って、戦病死したとの知らせが来るが、久米子はきっと生きていると信じる。息子国雄を当時8歳の渡辺茂夫が演じており、上手な演奏を聴かせてくれる。

渡辺茂夫は1941年生まれの伝説的な神童で、リサイタルやオーケストラのコンサートに出演した。14歳で単身渡米するも、16歳で睡眠薬を多量に服用し、一命をとりとめたが、脳に障害を負い、在宅療養をし1999年に亡くなった。彼の録音はCDで聴けるし写真もあるが、映像はこの幼き日に演奏したこの映画がおそらく唯一であろうから貴重である。

   

映画出演に際して、一つエピソードがある。ヴァイオリンは他の人が弾いたのに合わせて撮影すると言ったら、父親(叔父で養父)の渡辺季彦氏は、それなら茂夫は出さないと言ったとのことである。それくらい自信があったからであり、実際すばらしい演奏を披露してくれる。

戦病者が入院している病院で慰問演奏をして、何か歌謡曲をとリクエストがあり、国雄は「異国の丘」を弾くと、その曲を作った人がここにいるよ、と吉田正が患者の一人として特別出演している。ラストは夫が帰って来て、めでたしで終わる。

いつか来た道

1959年、大映。島耕二監督。

視覚障害のあるヴァイオリニスト和波孝禧が14歳で出演した映画。彼はその前年、全国学生音楽コンクール中学生の部で一位をとっている。

山梨のぶどう園で、祖父、姉(山本富士子)、妹(黒岩かおる)と暮らす稔の役である。ウィーン少年合唱団第二回来日のスケジュールの合間をぬってこの作品は撮影された。

目が見えない稔にとってはヴァイオリンが唯一の生きがいであり、またウィーン少年合唱団のヨハンと文通することが楽しみであった。妹もヴァイオリンに興味を示し、隠れて練習するなど、いろいろとエピソードがある。ウィーン少年合唱団が来日することになり、ヨハンもその一人であるが、稔は病気になり、悪くなっていき、姉はぜひ早く会わせたいとスケジュールの変更を頼み込み実現する。念願の対面となるが、最後は帰らぬ人となる。

   

この映画の当初の脚本は、「後からヴァイオリンを始めた目の見える妹がぐんぐん腕前を上げ、兄を追い越すようになる。そのことで悲観した兄は、ある日雨の山道をさまよい、それがもとで重い病に倒れる。駆け付けたペンフレンドと感激の対面をした後、少年は寂しく息を引き取る。」(和波孝禧著『音楽からの贈り物』新潮社より)というものであった。

この脚本に和波の母親がクレームをつけ、内容が変更されたという。 中央の画像は、感激の対面をする場面。ヨハン役は、シュタットマン・ヴォルフガング)、目の見えない稔の手を顔にもっていき、触らせる。感動の場面である。

最後は、演奏会で妹が兄の編曲した「この道」を合唱団とともに演奏する。この第二回来日のウィーン少年合唱団の演奏は私自身聴いているので、この映画はとりわけ思い出に残る作品である。



 

(第6話)新藤兼人作品の少年


新藤兼人の作品に登場する少年は、「ブラックボード」(1985年)で中学生を主人公にしたものもあるが、たいていは幼い男の子である。4作品について述べる。
※新藤兼人監督は、2012年5月29日に逝去されました。享年100歳。ご冥福をお祈り致します。

原爆の子 (1952年)

近代映画協会、劇団民芸の製作。

原爆投下当時、広島の幼稚園に勤めていた石川孝子(乙羽信子)は家族の中で一人だけ助かり、今は瀬戸内海の小島で教員をしている。あれから数年経ち、あの時の園児は今どうしているのか、訪ね歩くストーリー。子供たちももう中学生、貧しい生活の中でたくましく生きる少年、原爆症で病に伏せる少女、それぞれの運命を背負っていた。

孝子は両親のもとで働いていた岩吉爺やに出会い、息子夫婦を失い、孫の太郎と貧しい生活を送っていた。孝子は二人を島へ連れて帰ろうとしたが、固辞され、せめて太郎だけでもと申し出る。岩吉ははじめは承諾しなかったが、孫の将来のためにと孝子に託すことにした。

   

原爆の悲劇から7年経過した広島市の様子が描かれていた。まだ、悲劇の爪跡が残る風景もあるが、子供たちは川で泳いだりしてたくましく明るい姿が印象的であった。広島の現地の子供たちが出ている。太郎役は伊東隆(右写真)が演じていた。

裸の島 (1960年)

セリフが一切なく音楽で物語が進行する。瀬戸内海の小島、斜面の畑で作物を育てる夫婦(殿山泰司、乙羽信子)、日々隣の島から舟で水を運び、斜面を天秤棒で運び上げる。この単純な繰り返しの生活の中にエピソードが挿入される。すべてが素朴であるがゆえに、逆に感動が強く、音楽(林光)の果たす役割も大きい。

     

夫婦には二人の男の子がいて、太郎を田中伸二(各写真の右側)、次郎を堀本正紀が演じ、素朴な演技で静かな感動を呼ぶ。子供たちが釣った鯛を売りに行って、そのお金で家族で食事をしたり、とささやかな幸せのシーンもあれば、太郎が熱を出し、父親は医者を呼びに行くも間に合わなかったという悲しいシーンもある。モスクワ映画祭でグランプリを受賞した他、多くの国で絶賛された傑作である。

母 (1963年)

広島生まれの新藤兼人は「原爆の子」1952「第五福竜丸」1954といった原爆をテーマにした作品を作った。この作品はその約10年後のもので、直接原爆を扱ってはいないが、広島を舞台にした映画である。原爆ドームも背景として出てくる。

戦争で夫を亡くした民子(乙羽信子)が再婚するも破局に終わる。その大森という男との間に生まれた幼い息子利夫(頭師佳孝)が脳腫瘍になる。手術費用を出すということで初老の男(殿山泰司)と一緒になる。手術は終わるが、後に再発して視力がだんだん落ちていき、盲学校に通うことになる。頭師佳孝は、せいいっぱい生きる少年を好演していた。

落葉樹 (1986年)

初老の作家(小林桂樹)が子供時代を回想する形で物語は進行する。名家に育った主人公は、6歳になっても母(乙羽信子)と一緒に寝て、おっぱいに口をつける。母の行くところについて行くなど母との思い出が回想される。少年時代を演じているのが山中一希。坊主頭の少年で、純真な目で母を中心に、父や兄、姉の生きざまを見つめるのが印象的であった。

父の失敗で財産を失い一家は没落していくが、母は懸命に毎日をやりくりする。しかしながら、この作品で訴えたいことがはっきりしない。単なる回想で終わっており、作家の今の人生との関連性も薄く、単なるノスタルジーにしかなっていない。母の子供への慈しみを描いているが、息子と一緒に風呂に入り、体を洗ってやりながら、息子の性器に口づけをするというショッキングなシーンもあった。

      

ちなみに、新藤兼人は「触覚」(1970年)で、母と息子との関係を描いている。タイトルのように、子供は母親の乳房を吸うということから密着が始まるが、成長とともに離れていく。大学生になった息子にガールフレンドが登場して、子離れできない母親には衝撃的で、大きなものが喪失していく。少年時代の回想がわずかに描かれるが、少年役は誰が演じていたのかは不明である。ふとんの中で自慰をするシーンがあるが、母から離れていく一歩の回想である。人間の生と性については、新藤兼人の作品に共通して底を流れるテーマである。



 

(第7話)小津安二郎作品の少年


小津安二郎作品の中で少年が登場するものを取り上げる。

生れてはみたけれど (1932年)

小津のサイレントの傑作。キネマ旬報ベストテン第1位。「大人の見る繪本」という副題がついている。原作はジェームズ槇となっているが、これは小津のペンネームである。

父が課長をしているサラリーマン家庭を中心に描いている。父親は二人の子供に厳格で、勉強をしっかりして偉い人になれと言う。一家は、郊外に住む専務の岩崎の家の近くに引っ越ししてきて、悪ガキのグループとケンカをしたり、学校をずる休みしたりする。父に大目玉をくらう。そのうち近所の子供たちと仲良くなり、一緒に遊ぶ。互いに自分の父親が偉いと自慢をする。

岩崎の家で活動写真をするというので、子供たちも見に行く。ホームムービーであるが、ここでの子供たちの会話が面白い。動物園のライオンが映ったら、「歯磨きはどこから取れるんだい」「シッポからだよ」、シマウマが映ったら、白いところに黒の縞なのか、黒いところに白の縞なのか言い争う。

映画は、会社の風景になり、父が岩崎の前でお世辞やごきげんうかがいをする姿を見て、二人は父は偉いと思っていたので失望する。反抗的態度に出て、父も少しは考える。ハンストに入るが、朝、母がそっとおにぎりを差し出し、それを食べ、父も声をかける。一緒に家を出て、重役の車が踏切で止まる。子供たちは父親にお辞儀をした方がいいよ、と言う。

長男良一に菅原秀雄(左、中の写真の右側)、次男啓二に突貫小僧こと青木富夫(同、左側)、岩崎の子供太郎に加藤清一、遊び仲間に飯島善太郎、藤松正太郎らが出ていて、特筆すべきは後に「一人息子」(1936年)、「風の中の子供」(1937年)に出演した葉山正雄(右の写真の左端)が出演している。

この作品はIVCのビデオでは松田春翆の活弁付きであったが、松竹のDVDでは91分間一切音声は入っていない。でもフィルムの状態は良かった。

一人息子 (1936年)

小津安二郎のトーキー第1作である。母子家庭の母(飯田蝶子)と息子(日守新一)を描いたもので、その少年時代を葉山正雄が演じている。貧しい生活の中、息子を中学校へ進学はさせられないと思っているところへ担任(笠智衆)の強い勧めもあり進学させる。

時は流れ、所帯をもった息子の住む東京へ訪れる母、夜学の教師をして決して楽ではない生活ぶりに、母はもっと偉くなっているものだと思っていて落胆する。しかし、近所の子供がけがをした時にやさしくしてあげ、お金のめんどうをみる姿に「お前のような息子をもって幸せだ」と言う。

子役は葉山正雄の他に、突貫小僧、爆弾小僧が出ており、彼らは清水宏の「風の中の子供」(1937)でも出演した。トーキー第1作とあって興味深いシーンがある。息子が母を映画に連れていき、母に「これがトーキーだよ」と言う。上映されていたのは「未完成交響楽」(1933年オーストリア映画、日本公開は1935年)、しかし母は見ながら寝てしまう。全編を通して飯田蝶子がすばらしい味を出している。

父ありき (1942年)

小津作品に必ずといって出ている笠智衆が父親役である。父子家庭で、中学校の教師をしながら小学生の息子(津田晴彦)を育てている。しかし修学旅行で生徒を事故で亡くし、人の命を預かる仕事の責任を感じて辞職する。父は東京へ、息子は郷里の上田で離れて暮らし、その後息子は仙台の帝大へ、卒業後は秋田で教員の道を歩む。

成人後は佐野周二が演じている。父とは一緒に暮らせなかったが、死の間際数日間水入らずで過ごし、父も子も幸福な一時であった。戦争中に作られた作品で、キネマ旬報ベストテン第2位であった。1位は「ハワイ・マレー沖海戦」、3位は「将軍と参謀と兵」と、時代がよくわかる。

長屋紳士録 (1947年)

小津が復員して初めて作った戦後第一作。庶民の人情話である。父親とはぐれた少年、幸平(青木放屁)をおたね(飯田蝶子)が預かることになる。突然のことで迷惑な話である。彼を疎ましく感じ、邪険に扱う。おまけに寝小便はするし、どうにもならない。元は茅ヶ崎に住んでいたというので連れて行くが、帰すあてもなく、置き去りにしようとしても、ちゃんとついて来る。

幸平は、また寝小便をした時に、叱られるのがいやで家出をする。おたねは心配になり捜し回る。この時あたりから、情がわいて来て、自分の子のように母性愛を感じたりする。そんな時に、父親が現れ、幸平と別れることになり、おたねは急に寂しさを感じる。出会いも別れも突然のことであった。「一人息子」でもそうであったが、飯田蝶子はすばらしい演技であった。最後に語る人の生き方にふれるところはすばらしい。

青木放屁(本名、青木富宏)は突貫小僧こと青木富夫の異父弟である。まさに庶民の子をよく演じていて、見ているうちにだんだんと彼をいじらしく感じ、感情移入をしてしまうのである。青木放屁は、続く小津作品「風の中の牝鶏」(1948年)で彦三(坂本武)の息子正一役、「晩春」(1949年)で田口マサ(杉村春子)の息子勝義役、いずれもチョイ役で出演している。(※右2つの写真は「風の中の牝鶏」「晩春」から)

麦秋 (1951年)

北鎌倉の間宮家、康一(笠智衆)、史子(三宅邦子)夫妻には二人の男の子と、康一の妹紀子(原節子)がいる。その28歳になる紀子の縁談にまつわる話が中心である。

会社の上司から良い人がいると言われる。社会的地位もあり、評判も良いが、40歳になるという。周囲もうまくいくと思っていたが、紀子は近所に住む、女の子のいる医師の健吉と結婚することにする。彼は秋田へ赴任するところだった。

家族や友人とのふれあいがよく描かれた作品であった。息子実役に村瀬禅、勇役に城澤勇夫が演じている。父が子供たちが欲しかった電車の模型を買ってきてくれたと思って包みを開けると食パンであることを知り、ガッカリしたどころか、それを足で蹴って叱られ、二人は家を飛び出すというエピソードがある。

この作品と「東京物語」「お早よう」で男の子兄弟の名前は、すべて兄が実で、弟が勇である。村瀬禅は「東京物語」でも実役を演じている。

東京物語 (1953年)

小津の代表作であり、ベストワンの映画である。老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が尾道から上京し、息子の家を訪れるも、月日の流れは親子の絆をも薄れさせていた。亡くなった長男の嫁(原節子)は、血はつながっていないが、献身的に二人に尽くすという、人間の心の底を見事に描きつくした傑作である。

開業医をしている次男(山村聡)には息子が二人いて、長男実を村瀬弾(写真)が、次男勇を毛利充宏が演じていた。長男は中学生で英語の勉強をするシーンがあった。彼らは孫であるので、出番は多くはない。

お早よう (1959年)

郊外の家庭での大人と子供の世界を描いている。サラリーマン家庭の林家(父親役は笠智衆、母親役は三宅邦子)には二人の男の子がいて、長男実(設楽幸嗣)と次男勇(島津雅彦)である。

子供たちの間で、オデコを押すとオナラをするというおかしな遊びがはやっていた。友人の幸造は時々失敗をしてパンツを汚すことも。母親からは、このために洗濯機を買ったのではない、といやみを言われる。

相撲が始まる頃には、テレビのある家に上がり込み、勉強をしないのを叱られる。じゃテレビを買ってくれと言う。父親は子供のくせに余計なことを言うなと怒鳴ったことに、「大人だって、オハヨウ、イイテンキデスネなどと余計なことを言ってるじゃないか」と反発し、兄弟二人でだんまり作戦を始める。このあたりの子供たちの反抗の姿の原型は「生れてはみたけれど」での兄弟の行動に見られる。

最後は家にテレビが届いたところでだんまり作戦は終わり、翌朝は近所のおばさんに元気に挨拶をする。おかみさん連中のうわさ話などさまざまな人間模様も描かれ、子供が英語を習っている青年の恋愛とかもあり、押し売りまで登場し、楽しい娯楽作に仕上がっていた。

子役の二人、設楽幸嗣はすでに多くの映画に出演していた子役であり、島津雅彦はその後に多くの作品で活躍した。原口幸造役は白田肇(右の写真)が演じていた。

秋日和 (1960年)

「晩春」が父娘の物語なら、「秋日和」は母と娘の物語である。夫を亡くして7年経つ三輪秋子(原節子)、夫の七回忌に友人が集まり、秋子の娘アヤ子(司葉子)の結婚話になる。

その前に秋子の再婚の方が先で、それでないとアヤ子も結婚しにくいだろうという話にもなる。人と人とのふれあいが、今ならプライバシーにかかわることに立ち入ったりしているが、古き良き時代を感じさせる。

「お早よう」で兄弟を演じた設楽幸嗣(左写真)と島津雅彦が、それぞれ別の家庭の子供で出てくる。田口(中村伸郎)の息子和男役で設楽が、間宮(佐分利信)の息子忠雄を島津が演じているが、出番はわずかである。

小津安二郎10

小早川家の秋 (1961年)

小津安二郎が東宝で作った唯一の映画で、宝塚映画10周年記念作品。

京都の造り酒屋小早川家の人間模様を描いたもので、小津の最後の一つ前の作品である。小早川万兵衛(中村鴈治郎)の老いらくの恋とその死を中心にしていて、死生観漂う作品となった。

長女(新珠三千代)の息子正夫役は島津雅彦が演じており、登場場面は少ないが、おじいちゃんとのかかわりがほのぼのとした感じがする。東宝の大スターが多数出演している中で、島津雅彦の存在は、私にはマスコットのように感じられた。



 

(第8話)イタリアを舞台にした米英映画の少年


イタリアは魅力的な国だ。オーストリアからアルプスを越えてイタリアに入ると、太陽の輝きが違うのだ。体験して初めてわかるのだが、イタリアの真夏の太陽は金色に輝いている。モーツァルトやゲーテ、メンデルスゾーンら多くの芸術家がイタリアを訪れたのは、この太陽の輝きを求めてだと思ってしまう。

イタリアはラブロマンスを描くのには格好の場所である。あまりにも有名な「ローマの休日」(1953)といった観光地を舞台にした映画を見て、印象に残れば残るほど、映画で見た場所を訪れたくなり、そしてスペイン広場でジェラートを食べたり、真実の口に手を突っ込んだりしたくなるのだ。イタリアを舞台にした少年の登場する米英映画をとりあげる。

リナルド

旅愁

1951年、アメリカ映画。ウィリアム・ディターレ監督。

イタリアを舞台にしたラブロマンスで、「ローマの休日」とともに心に残る作品である。共通するのはおとぎ話であること。

ローマに始まり、ナポリ、ポンペイ、カプリ島、そしてフィレンツェと観光地の見所も豊富だ。主題曲の「セプテンバー・ソング」も有名だ。

ローマからニューヨークへ帰国の途についたデイヴィッド(ジョセフ・コットン)は飛行機の中で、コンサートに向かうピアニストのマニーナ(ジョーン・フォンテーン)と知り合う。飛行機の燃料ポンプの不具合で、ナポリ空港に不時着し修理をする間二人はナポリ見物をするが、戻った時は飛行機が離陸したばかりであった。

これを機会にポンペイ、カプリ島を観光する。そして、ホテルで新聞を見て、乗りそこなった飛行機が墜落し、自分たちの名前も出ていた。ここから夢物語が始まる。自分たちは死んだのだから、新しい人生を歩もうとする。

マニーナのピアノの先生マリア・サルヴァティーニ(フランソワーズ・ロゼー)の世話でフィレンツェに居を構える。マリア先生は「身勝手な生き方で幸せは得られない」と冷静に忠告する。デイヴィッドの妻は、夫の口座からマリア・サルヴァティーニという女性宛に小切手が引き出されていることを知らされ、息子と彼女を訪ねる。

そこにマニーナもいて、会った息子は新聞に載った彼女の写真を見て、父が生きていることを確信するが、妻は手紙を残し、会わずに帰国する。マニーナがニューヨークでコンサートに出演するのに、デイヴィッドも一緒に行き、自宅に戻る。

ラストは「過去を捨てたつもりだったができなかった」と、マニーナが南米に行く空港で別れる。ありえない話でも、映画の世界にひたることができた。フランソワーズ・ロゼーの貫禄ある存在感はさすがである。

(左はリナルド。 右はピエトロとマリオ。)

登場した少年は、ナポリ空港でマニーナにチョコをねだりお金をもらう9歳のリナルド、街中で歌を歌う二人の少年、そしてフィレンツェの家の家政婦ビアンカの二人の子供のピエトロとマリオであるが、いずれも氏名不詳である。

終着駅

1953年、米,伊映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督。

ローマのテルミニ駅を舞台に、アメリカ人女性メアリー(ジェニファー・ジョーンズ)と青年ジョヴァンニ(モンゴメリー・クリフト)のラブロマンスを描いたもの。

二人は知り合って恋に落ちる。それが募れば募るほど、断ち切るにはメアリーは帰国するしかない。アメリカには夫や娘がいるのだ。物語は、メアリーが列車でローマを去ろうとするところから始まり、どういうきっかけで二人は知り合い、恋に発展したのかそのいきさつは描かれない。

列車に乗ったメアリーもジョヴァンニが追って来て再会すると列車を降りて後の列車にする。そして会うと恋が燃え上がり、使っていない車両の中でひとときを過ごし、不審な行動で取り調べを受けたりする。

時間の経過を、駅の時計と同時進行で、ドキュメント風に追い、緊張感を高める手法である。いろんな人々、さまざまな人生の行き交う駅の雑踏の中で二人の恋を浮かび上がらせる。とうとう別れの時が来て、ジョヴァンニは列車の中まで見送りに来て、出発した列車から降り、プラットホームに倒れる…辛い別れであった。

メアリーの甥のポール役をリチャード・ベイマー(1938年生まれ)が演じていた。彼はその6年後「ウエストサイド物語」で成長した姿を見せてくれた。

旅情

1955年、イギリス映画。デヴィッド・リーン監督。

ヴェネチアを舞台にした映画はいろいろあるが、その中でもあまりにも有名な作品で、アレッサンドロ・チコニーニの主題曲とともに、長く心に残る作品である。

独身で38歳のジェイン(キャサリン・ヘップバーン)は、アメリカからヨーロッパの旅でヴェネチアにやって来る。冒頭、列車が本土から桟橋を渡りヴェネチアが見えてくると8ミリを回しながら興奮する。彼女にはこの地で見るもの聞くもの何でも新鮮であった。

街の中を散歩していると孤児のマウロ(ガエターノ・アウティエロ)に声をかけられ、物を売りつけられたり、案内をしてもらったりする。彼は人懐こく、したたかでもある。「おじいちゃんにあげるから」とタバコを一本もらうが、別れた後にちゃっかりと吸う。

骨董店の店主(ロッサノ・ブラッツィ)と恋に落ちるも、結局はひとときの恋であり、列車で去るところで別れる。列車が動き出した時にホームに現れる。プレゼントを渡したいが、気づいたジェインが手を伸ばすもどんどん離れていく。彼は手に持ったくちなしの花を掲げる。

いろんな思い出を胸に、ジェインの別れの心情が伝わるシーンであった。この映画を見てヴェネチアに生きたいと思うのは自然な気持ちであろう。列車でも、また飛行機で行ってもバスで本土から桟橋を渡るのでヴェネチアが近づくと興奮してくる。

ガエターノ・アウティエロは1941年生まれで、他に2本の映画に出ているようだ。なお、同じくヴェネチアを舞台にした「ベニスに死す」はほとんどがリド島で撮影された。ヴェネチア映画祭が開催されるところである。

ナポリ湾

1960年、アメリカ映画。メルピル・シェイブルソン監督。

「それはナポリから始まった」という題で、ナポリはわずかで、物語はカプリ島が舞台である。

アメリカの弁護士マイク・ハミルトン(クラーク・ゲーブル)が、亡くなった兄の財産整理のためにナポリに列車でやって来る。兄は10年前に妻を棄ててイタリアにやって来て、イタリア人の妻をもち、二人とも事故死したのだ。

兄の遺児ナンド(マリエット)はキャバレーの踊り子をしている叔母のルチア(ソフィア・ローレン)と暮らしているが、学校に行かず、夜遅くまで起きていたり、タバコを吸ったりしていた。それを見かねたマイクは彼を何とかしたいと思う。そのうちルチアにも好感をもつようになる。

親権を争う裁判でマイクは敗訴となる。その後、アメリカに戻るために列車に乗る。動き出してから降り、カプリ島に戻る。三人で幸せに暮らすだろうという余韻がある終わり方だ。

カプリ島の観光地として有名な青の洞窟の息を飲むような美しさはどう表現したら良いのだろう。またお祭りの風物も描かれていた。ナポリ現地の弁護士役をヴィットリオ・デ・シーカ(「終着駅」の監督)が演じていた。

ナンド役のマリエット(本名はカルロ・アンジェレッティ)はイタリアの子供らしく陽気であり感情表現が豊かで、さりげなく二人のキューピッド役も果たしていた。



 

(第9話)フランス映画の少年


フランス映画に登場した少年を紹介する。※全面改訂(2019.5.5)

ぼくの伯父さん

1958年、ジャック・タチ監督。

ジャック・タチの自作自演で、終始のどかな温かい喜劇で、パントマイムをはじめサイレントの雰囲気も加えている。

近代化する街並みやモータリゼーション、一方で下町では物売りの声など庶民的な情緒を残している。

ユロ氏(ジャック・タチ)の姉のアルベル家は、モダンな設計の家に住んでいる。遠隔操作で門が開閉し、来客の時には噴水を流す。台所も電気や機械でコントロールされている。

ジャック・タチはこうした機械文明や機械に追われる人間を批判しているのではなく、ユロ氏のように、情緒があり自由な下町での生活もあり、その方が性に合うと言っているのだろう。

アルベル家の一人息子のジェラール(アラン・ベクール)は、登校時は父の車で送ってもらう。帰りはおじさんが迎えに来ても、途中で友達とイタズラをしたりして遊ぶ。屋台で子供たちは揚げパンを買って食べるが、おいしそうだった。

フランス風のエスプリが散りばめられ、ニヤリとさせられるが、テンポがゆるいのはこの時代のものだ。ちなみに題の「ぼくの伯父さん」であるが、ユロ氏はジェラールの母の弟だから「叔父さん」が適切である。

ジェラールの出番はそう多くないが、部屋で勉強する姿を見て両親は喜ぶが、実はイタズラをしていたり、友人と通りかかる人に口笛を吹き、その人がよそ見をして街灯にぶつかるか賭けをする遊びをしたりと、子供らしさを見せていた。失敗をうまくカバーもしてくれるおじさんを慕う姿はほほえましい。

歌う女、歌わない女

1977年、アニュエス・ヴァルダ監督。

性格も行動も対照的な二人の女性の生き方と交流を描いたもの。

「歌う女」はポム、文字通り歌手志望で、フォークグループに加わるなど積極的に生きている。アムステルダムでイラン人と愛し合い、そして結婚。子供も出来るが、やがて離婚し、再びフォークグループへ。

「歌わない女」はシュザンヌ、シングルマザーで二人の子、マリーとマチューがいる。田舎の実家で周囲の冷たい目もあるが、タイプを学び、家族センターのコンサルタントとなり、最後には幸せな結婚をする。

1962年から15年にわたって二人の友情と生き方から、自立した女性の姿を描いている。男女同権主義など当時の社会状況も加えている。

シュザンヌの娘マリーをロザリー・ヴァルダ(監督の娘)、マチューをローラン・プラーニュが演じていた。さらに、監督の5歳の息子マチュー・ドゥミもゾロ役でちょっと出演している。彼はこの10年後に母の監督作品「カンフー・マスター」に出演した。

世界でいちばん不運で幸せな私

2003年、ヤン・サミュエル監督。

フランスの恋愛映画としては異色であり、先の展開が見えない。

ジュリアン(ギョーム・カネ)とソフィ(マリオン・コティヤール)の子供時代が冒頭から20分余り描かれる。

ジュリアン(ティボー・ヴァルアーゲ)は母が病気である。ポーランド移民のソフィ(ジョゼフィーヌ・ルバ・ジョリー)はいじめられている。二人は親しくなり、そんなことを忘れるためにか、ゲームを始める。

“Cap, pas cap?”(のる、のらない?)のセリフ、そしてジュリアンが母からもらったメリーゴーランドの缶のやりとりがずっと続く。ゲームは、子供の遊び(原題のJeux D'Enfants)に過ぎないが、時にはいたずらの範囲を超えてしまう。

ジュリアンの母が亡くなり、父はジュリアンの寂しさをまぎらわせようとソフィを呼び、家に泊める。

それから10年、相変わらず続くゲームは悪趣味や倒錯したものへと加速する。缶も行ったり来たり。さらに10年、互いに結婚してようやく自分の本当の気持ちに気づく…。

幼くして運命の相手と出会いながら、成長するにつれ、その認識が遠ざかるという皮肉、ラストの永遠の愛の姿は、解釈もいろいろ出来る。子供時代の学校でのいたずらはいただけないが、生き生きした遊びの範囲はほほえましい。ジュリアンが空想した、二人がアダムとイヴの姿も幻想的だ。

全編を通して「バラ色の人生」の曲が、ルイ・アームストロングをはじめさまざまなアーティストで流れる。



 

(第10話)スペイン映画の少年


スペイン映画に登場した少年を紹介する。

バレンチナ物語

1983年、ントニオ・ホセ・ベタンコール監督

スペイン内乱で倒れた英雄ホセ・ガルデスの幼い恋について、戦友が語るというもの。主人公が語って聞かせていたものだろう。ほとんどが回想シーンであることでは「汚れなき悪戯」と同じ手法である。

ホセ、愛称ぺぺ(ホルヘ・サンズ)は12歳、いたずら好きで情熱的に将来を夢見ており、バレンチナ(パロマ・ゴメス)に恋をしている。司祭のホアキン師(アンソニー・クイン)は二人を温かく見守る。このホアキン師とぺぺ、そしてバレンチナの家族が古城で休暇を過ごすことになる。冒険心でぺぺとバレンチナは一緒に秘密の通路に入り、そこから森の中を歩き一夜を過ごす。行方がわからなくなった二人を家族や警察が捜し、見つけ出した親はバレンチナを連れて帰ってしまい、それが二人の別れとなった。

      

二人の子役はかわいらしかったが、第三者が語る回想物語のこの映画は、二本立て上映の添え物的存在であったので、強い印象は残っていない。

ANA + OTTO アナとオットー

1998年、フリオ・メデム監督

子供時代のアナ(サラ・バリエンテ)とオットー(ペルー・メデム、監督の息子)の出会いは偶然に支配されていたし、二人の名前もパリンドローム(前後どちらから読んでも同じ)である。

幼いオットーは一言メッセージを書いた紙ヒコーキを学校のトイレの窓から飛ばす。何かを伝えたいというメッセージのシーンである。友達の蹴ったボールを追って公園に行き、前を走るアンがころび、それが最初の出会いであった。この運命は、アナの母親(父は事故死)とオットーの父親(母親とは離婚の危機に)とが結びつくことに発展する。結果としては、二人は義兄妹になるのである。

時はながれティーンエージャーとなったオットービクトル・ウゴ・オリベイラ)は母と暮らしているが、アナの家庭に入りびたり、二人は愛し合う。この少年〜青年時代がノスタルジックに美しく描かれる。

     

この映画の原題は「北極圏の恋人たち」で、最後にフィンランドが舞台となる。再会を果たしたかのようだが、思わぬ結末が。フィンランドの北極圏にあるロバニエミは、サンタクロースのふるさととして有名である。

バッド・エデュケーション

2004年、ペドロ・アルモドバル監督。

若き映画監督エンリケのところにかつての親友イグナシオと称する男(実はその弟であることが後でわかる)が脚本を持って現れ、そこにはエンリケが神学校で経験したことが書かれていた。現在と過去が交錯して描かれている。

二人の少年時代は、ブランコ政権下の抑圧的な環境であった。イグナシオ(イグナシオ・ペレス)とエンリケ(ラウル・ガルシア・フォルネイロ)は互いに恋心を抱いていた。イグナシオは聖歌隊員で、ソロの美しい歌声も披露される。彼はマノロ神父のお気に入りである。ある夜、眠られず二人がトイレの個室にいたところを見つけられ、マノロ神父はイグナシオに性的虐待をし、エンリケを退学処分にする。二人の仲はそれきり途絶えたままであった。

     

二人の少年が魅力的であり、イグナシオのボーイソプラノにはほれぼれする。「ムーンリバー」と詩を替えて「帰れソレントへ」を歌う。

永遠のこどもたち

2007年、スペイン・メキシコ映画。J.A.パヨナ監督。

独特の雰囲気をもつホラー映画である。不意に聞こえる物音がいやが上にも恐怖をかきたて(心臓に悪い)、「キャリー」(1976)を思い出させるシーンもある。

孤児院で育ったラウラ(ベレン・ルエダ)は、夫カルロスと7歳の息子シモン(ロジェール・プリンセプ)と、今は使われていないその孤児院に移ってくる。そして、障害のある子供たちの施設にしようとする。海の近くで、灯台も見える場所にある。過去のシーンが冒頭で描かれ、日本では「だるまさんがころんだ」の遊びが、「1、2、3、壁を叩け」という合図で行われている。

シモンは空想上の友達と遊ぶが、友達の声が聞こえるのが家の中であったり、洞窟の中であったりする。そのシモンが突然姿を消す。ベニグナという老婆の出現、その息子の秘密と、当時の子供たちの謎、これらが後半どんどん明かされる。

変わり果てた姿のシモン、彼を抱きながらラウラは薬を飲む。そこに駆け寄る昔一緒だった孤児たち…恐怖から少し幻想的な終わり方だ。シモン役のロジェール・プリンセプ(1998年生まれ)は、この3年後に「ペーパーバード」に出演した。




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